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各地で阿波踊りが登場
昭和43年頃より、明治100年を期に警視庁の許可方針がゆるみ、都内の各商店街でも阿波踊りが取り入れられるようになった。現在では30カ所とも40カ所とも言われている。
それぞれの各商店街の阿波踊り大会に高円寺のメンバーを招いていただき、踊る機会が格段に増えてきたことで、高円寺のメンバーたちが、葵新連、天狗連に続き、独立連を結成して活動が活発になっていく。そして、昭和47年には有力な独立連がほぼ出揃い技を競い合う時代に入っていくのである。
昭和46年には、サンケイ新聞社が後援につき、本格的なポスターを作成。電車の車内広告や駅貼り広告も行われた。この年から前夜祭も執り行われるようになった。
連長会の発足
昭和48年、オイルショック。ものの不足により、運営費が大幅にアップした。
昭和49年、各地の阿波踊りの応援やテレビ出演と多忙を極める。
昭和50年、現高円寺阿波おどり協会の前身である、「連長会」が発足。15連からのスタートだった。
昭和51年、アメリカ建国200年祭の催しとしてサンフランシスコ、ロサンゼルス、ホノルルの3つの都市から招待を受けた。初の海外遠征を成し得たのである。
昭和52年、高円寺の阿波踊りに関する業務を一元化するために、「東京阿波踊り振興協会」が発足される。
昭和53年、商工会議所100年記念、全国郷土祭に天皇陛下ご臨席のもと徳島から150人、高円寺からも600人が参加して徳島と共演した。このことが機会となって徳島の連と高円寺の連の交流が始まった。
昭和54年、当時の鈴木東京都知事がテープカットに駆けつける。以降、都知事のテープカットが恒例となる。
昭和56年、「連長会」を発展解消し、「高円寺阿波おどり連協会」が発足される。現場サイドから「東京阿波踊り振興協会」をさ さえ高円寺阿波おどりの発展に尽力する態勢がととのったのである。そしてこの年、連協会主催の記念行事としてバス2台、80名の踊り手が本場徳島の祭りに参加したのである。
昭和58年、木場連から発展した「天恵連」が出演。同年に75歳で他界された高円寺の恩人「鴨川氏」の追悼をかねての20年ぶりの出演であった。
昭和61年、30周年。「どよめきの30年 おどれ高円寺」が発刊。そして、30周年を記念して「高円寺ばか踊り」の第1期生が久しぶりの踊りを披露したのである。
そしてこの年、徳島県阿波踊り協会の連長会の豪華競演であった。14連37名が高円寺30周年を祝って上京し、友情出演をしてくれたのである。いずれも有名連の連長ばかり、徳島でも最高峰の踊り手たち。女連長もおいでになり、めったに見ることのできない日本一の名人芸に高円寺中酔いしれたのであった。
その後も、各国、各地への出演を重ねている。
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